NARRATOR ROAD


呼吸法…

2014/02/22

吸気と呼気

昨年末、地方在住のナレーターから一通のメールが届く、
新年の挨拶を兼ねて将来のお話をすべく伺いたいと記されていた。
地方都市における仕事内容、表現のスキルアップも思いのほか、
ままならぬなのだろうと推測した。

それもそのはず、今から3年前になるが、
彼女との個人レッスン時に吸気と呼気のバランス、
そして、効率よくナレーションを表現する方法論の伝授を試みるが、
過去に教わった例もないため、コーチングされる一つ一つの意味内容の
理解度と本人の不出来に落胆したのか、泣き崩れる場面が多々あったことを
昨日の出来事のように記憶している。

そして、今年の久方ぶりのレッスンの場で、
柔軟な身体が心豊かな表現を可能にすると言う教えを目的に、
ストレッチに合わせた吸気と呼気を連動させる呼吸法の鍛錬を日々続ける
と同時に、舌の適正位置を知ること、舌の筋肉を鍛えるなどの諸々をコーチング、
表現欲求と本人の努力が功を奏し、数週間の後、効果が現れ明らかに改善された。

inochi.2

ボイスサンプル収録時、
その声、そのナレーションに命(魂)が吹き込れたと言うに相応しく、
3年前より、はるかに音声表現は進化したと言って過言ではない。

とは言え、現段階では呼吸法を体得したばかり、
まだまだ課題山積ではあるが、自身が今以上の結果を求めるには、
向上心を強く抱き、怠けることなく自助努力するほかに道はないと告げた。

撮影地
奈良市 元興寺 智光曼荼羅 「命」 アートインスタレーション


3.11

2013/03/11

3.11
あの日から2年。

2011年3月11日、2時46分 東日本大震災発生。

あの時間、フジテレビ18階のカフェで打合せ中だった。
すぐにおさまるであろうと思ったものの、激しくなるばかり、
気配は一変しエレベーターは停止状態、避難は非常階段以外にはなく、
次から次へと、各フロアーから退避する人、人の数で溢れかえっていた。
ようやく、外へ出たが、近隣のビルからも避難した人の数に驚きを覚え、
一瞬にして、日常と違う光景に触れ、自然界の驚異に無力さを感じた。

そして、近くのビル建築現場では火災が発生し、
報道局の撮影クルーが伝えるべく使命感に駆られているのか、
足早に現場へとむかう姿をハッキリと覚えている。

昨年同様、
今年も各局では震災特番が放送されています。

そんな中、ひときわ心打たれる特番を目にとめました。
単に、被災地の人々の苦しみや悲しみ、辛い悩みを伝える番組ではなく、
取材に費やした時間と映像、音響効果、演出、ナレーションに至るまでの
すべてにおいて、思慮深く考察させると言って過言ではないドキュメンタリー。

特に、語り手の感情移入と呼吸法の息づかい、息つぎが、
一体となっており、視る人の心に染み入る表現となっていることです。

マスメディア界に身を置く、我々に何が出来るのか。
改めて、業界人として何をすべきなのかを考えさせられた、2013/3/11

声に特化したナレーションをベースに、
クリエイティブワークを推進するナレータープロダクション。
貢献出来ることは何かを模索探求し、そう遠からぬ時期に形にし、
人のため、世のために役立つ表現を心がける想いを強くするとともに、
一人でも多く、次世代のナレーター育成の急務を感じずにはいられない。

あの日を忘れない
合掌3.11

撮影地
栃木県太田市 常楽寺


守・破・離

2013/03/09

気づけば、昨年の1月に記述投稿して以来、
時間が止まったかのように空白の時が流れてしまい、
新しい年月が刻まれていなかったNARRATOR ROAD BLOG。

これはいかんと思い、春の訪れは始まりの季節とあって再開です。

各養成所では、オーディションが行われていた2月。
弊社もガイダンスに記述してある通り、毎年2月と8月の2回に分けて、
オーディションを実施しているが、今期は該当するレッスン生はいなかった。
と言うか、きちんと教えを守り流れに準じ、練習と努力を積み重ねていれば、
チャンスを手中に収められる可能性は皆無ではなかったと言える。
結果として、形ばかりのボイスサンプル収録となり2月は過ぎ去りました。

多種多様な表現の世界はあるが、いかなる表現も、
心と人間が成熟せずして、邪念や雑念まみれの心からは、
そう簡単に、真の表現は発露されるものではない。

そのレッスン生も、その一人であり、今になってようやく、
学んできた時間の数ヶ月を振り返り、何が災いしたのか、
失敗した要因はなんだったのか、冷静に判断出来てきた様相である。

これまでにも、数多くの応募者が参加してきたが、
総じて言えることの一つとして、ナレーションと言う表現を安易に考え、
軽んじ、そして、日本語を読むなら自分にも簡単に出来るだろうと言う、
根拠も論拠もない、自信の持ち主がが多かったことかと改めて思う。

ナレーション、朗読の世界で活躍されている
大家の先生が仰るに、声質が良くて発音が明晰であれば、
「書いたものを読むなら誰でもできる」と言う人がいることに対し、
そう簡単に断定してもらいたくないと苦言を呈しています。

拝借し一例を述べるとこうです。
「文」とは整った言葉であり、
日常の会話の言葉と区別する必要性があると言うこと。
「文」は文字に書かれるように整っており、場合によっては形式をもち、
技巧さえも用いられる言葉として扱う性質を持ち合わせてると言うこと。

反面、日常会話とは首尾整わなくても通じ合うような、
状況と場面に依存して、話し手・聞き手の顔の表情やしぐさとともに、
用いられる言葉であり、何より違うのは、互いに相手の反応を見ながら
確かめながら用いられると言う点です。

多くの人が表現を簡単に当たり前のように出来ると思っていることを、
考察し工夫して取り組まなくてはいけないのです。
実際、そうしなければ映像を通して満足できるナレーションは出来ません
と、明言することに深く感銘を受け、意味を真摯に受け止め、表現の師と仰ぎ、
そして、ナレーションを軽んじることなくワークショップを実施しています。

Players WorkShop OPALには流儀が存在します。
「守・破・離」と言う流儀であり、ルールであり教えです。

「守」は、師について教えを守り習うこと。
「破」は、その教えからさらに新たなものを見いだすこと。
「離」は、その型から離れ、新しい自分の型をつくること。
この流儀、教えを守り学び通すことにより道は開けていき、花は咲き、
やがては、個性が確立され晴れて所属となりプロデビュー出来るのです。

shi

撮影地
鎌倉 長勝寺


偽脱…

2012/01/01

2012 指針「偽りからの脱却」
2011年版 実録。
・こんなことに気付かされました?
・こんな発見がありました?
・ナレーションの仕事をした折、
感動を覚えたので生涯を通して極めていきたい。

昨年秋、表面的な気付きに一喜一憂した、
レッスン生、30代女性の2人が発した言葉の一片。
確認する意味で、その一片に質疑を試んでみると、
何故か否定と解釈され、そして、耐え切れなくなったのか、
指したる理由もなくOPALを去りました。
否定されることに傷つくと言われる今時の若者世代。
いや、30代ともなれば若者ではなく立派な大人世代です。

推測するに、OPAL入所時に思い描いていた、
勝手な理想と目標、根拠も論拠もない希薄な目的意識。
つまりは、良くあるパターンの「どうにかなるであろう」的発想です。

そこまで、気持ちに偽りがありながら、
尚且つ、目指すべきの道の難解さと身の丈を知らぬ人間。
弱さを知り、そして、強さを知り、戦うべき所で戦う、
業界のモラルと常識を理解する者以外は生き残れない。

偽りの象例をあげてみるとこうなる。
・本当の自分は向いていないのではないか。
・何かを犠牲にしてまで頑張れる人間なのか。
・才能、資質、感性は備わっていないのではないか。
・向き不向きや得て不得手を見失っているのではないか。
・エンターティメント性を持ち合わせていないのでないか。

これこそが、OPAL流に言い換えれば「偽り」なのです。

このような迷い、悩みの事象を抱えながら、
思慮深く考えず、表現者として発信者として自立出来るのか、
と言った部分には目を塞ぎ、迷いや悩みを抱いていながら、
邪念と偽りを持ったままワークショップに参加する輩もいる。

若い世代ゆえ、
「心眼」(物事の真実の姿を見抜く鋭い心の働き)は、
持ち合わせてはいないが、 少なくとも自分に素直であるか、
謙虚であるか否かは、自身の判断基準に値すると思われる。

303

人間の目とは、
自分が興味あるものに目が向くようになっている。

各人がナレーションに興味があるなら
「偽りからの脱却」する以外に成長する術はない。

撮影地
神奈川県北鎌倉 円覚寺


飾・極・虐…

2011/11/20

「自分を偽って生きていたら、
ナレーションは作為的表現として、すぐにバレてしまう」

いつも真の自分で、真実の言葉を語っていきたい。

自らの思考と言動を、そう律し犠牲と覚悟、責任感に満ちた、
表現活動を目指す人間に出会えないものかと探し求めている。
が、希薄な現代社会、悲しかな、そう簡単に出会えるものではない。

「飾」…
人は、誰かの心を灯したくて、着飾るのか?
とかく、人は見た目の外見を飾りたがる。
言うところの、いわゆる「カッコ」つけたナレーション表現。
飾らず、カッコつけずとも、心が磨かれれば音声表現、技術は進化する。

「極」…
自己表現を極めたい、語りの職人になりたいと言う人がいる。
そう言う人に限り我が強く、論拠のない自信を抱き過信しているのだ。
何を極めると言うのか、極めると言う意味を完全に理解しているのかと、
疑問を投げかけたくなる、気持ちに駆られたことが何度となくあった。
極めるとは、表現、技ではなく、心、人間力を極めることなのであって、
決して、表面的な一部分を極めても存在価値は成立しない。

「虐」…
読んで字のごとくです。
意味は、まさに、自虐であり、自身を追い込むと言うことです。
草食系と言われる世代は、自分を愛する傾向が強く攻めの姿勢が低い。
まず表現者となりたいならライバルを見つけ、相手を知ることが肝要。
そして、ライバル心を燃やし、徹底的に自身を追い込み相手に重ね合わせ、
次々に、弱点を見つけ出し対比することも、とても、大切な要素です。

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究極のナレーションを求め勉学するなら、
まずは、極限まで自らを追い込み鍛え上げる「心・技・体」と、
続いて、「飾・極・虐」の各三文字を完全に理解し自らと戦う姿勢が、
心を磨き成熟へと導き、人となりが形成され、表現は深みを増します。
どんな表現も結局は自分、未熟であれば未熟なりの表現しかできません。

ナレーターは業界にごまんといる。
その中で唯一無二の存在になるには、自分を深く知り、
やり遂げる自分を信じ、応援してくれる人を待つしかないを持論とする。

競争あってこそ、戦いがあってこそ、人は強くなれる。

ナレーションを学んでいるから、自分を知ることが出来る。
ナレーションを学んでいるから、自己開発、啓発が出来る。

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人の営みも、自然界の営みと同様に移り変わりいくもの、
うつろう季節同様に色濃く深みある自然界に感動する我々、
表面的な部分に惑わされず、真の人間力、人間像を築くを忘れるべからず・・・

撮影地
神奈川県湯河原市 万葉公園


像…

2011/11/15

人には、その力がある。
夢を見る力がある。だが、夢を見る力はあるが、
その夢を現実にする力、術を持ち合わせていない者が数多くいる。
その理由は何故か、夢とは、その個人が勝手に描く妄想みたいなもの、
我を知る人は、勝手な夢、妄想を追わず等身大の自分を直視し判断する。

幼年期に夢をみた者、社会人となり夢みた者、
人それぞれに、様々な入り口から学びの場に席を置いた者、席を置いてる者。
一ヶ所に留まらず、数ヶ所を渡り歩く「養成所ジプシー」まで存在する。

過去の事例、
30代後半の女性がOPALに参加した時の話、
それまでに、10数ヶ所を渡り歩き投資額は約1,000万円、
と聞いて驚愕、驚き桃の木、21世紀・・・
なんて、馬鹿なことを言ってる場面ではない。
不可能を可能にすることへの苦悩の日々の連続。
思い以上に深く、自己受容と低次元の気迫な意志力と決断力に気付けない。
そして、芸事を甘く捉えがちな自身の存在意識も否定出来ぬ実態をも、
封印しているかのような者も多くいると言って過言ではない。
駄目な自分を直視すること、認めることは本人にとっての恐怖であり、
夢を諦めなければならなくなり、その現実を受け入れたくないのです。、

中でも、醜いのは、単に学びの場に身を置き、
行為、行動、そのものを楽しんでるかのタイプである。

「ケース・スタディ」
TYPE 1. イマジネーション(像)
想像 = 夢、想い、イメージ = 利己的。
判断基準は、まだ若い、これが出来る、無意味な可能性があると言う、
過大評価と過信が強く、勝手に創りあげた自分像の妄想に酔うタイプ。

TYPE 2. クリエイティブ(像)
創造 = プロデュース、ブランデング = 対価的。
判断基準は、意志力と決断力が強く、独創性と士気が高く、自助努力を怠らず、
戦略とビジョンを持ち合わせ、そして、着地点が明確に見えているタイプ。
世間全般で良く言われる言葉に、「ブレる、ブレない」とある。
ブレる人は意志力、判断力と決断力が欠落している。
ブレない人は、意志力と決断力に長けて、究極の違いは不屈の行動力です。

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この宇宙に存在する人間、
広い世の中に目を向けて、自分の存在とは何か、
ナレーターを目指す存在意義は何か、誰の為、何の為の夢なのか、
どれほどの価値があり、どれだけの影響力を及ぼすと言うのかを、
問いただせば、日頃の勉強と練習は事足りているかが見えてきます。

見えた時が、ようやく始まりの第一歩なのです。

撮影地
千葉県成田市 新勝寺


フィールド…

2011/10/15

私達が過ごしている日々の生活。
その日々の生活、いわゆるフィールドにモノ創りの原点とも言うべき、
数多くのヒントや答えが潜んでいることにお気づきであろうか。

例えば、
会話の中には、アクセントやイントネーションがあり、
それが、正しいのか、間違っているのかを知るヒントがあります。

続いて、会話となれば発声が大きく関わります。
きちんと正しい発声が出来れていれば、平板にはならず、
アクセントやプロミネンスも考慮されてリズミカルな会話になります。
リズミカルは、つまり、テンポ、緩急と連動し相手を飽きさせません。

続けて、声域、音域の幅にも関係し作用するのです。
「驚いた時」「嬉しい時」「楽しい時」「悲しい時」などは、
感情を顕に出すこととなり、その振れ幅を最大にし言葉を発しています。

が、しかし、
実際の場面、レッスンではどうでしょうか。
感情を表に出すことは、大きな表現となるのですが、
いざ、原稿を手に取り読み上げると、非常に声域や音域は狭くなります。

それは、何故でしょうか。
答えは、日々のフィールドに隠されています。
日頃並びに普段、会話をしている相手は大多数が身近な人や友人、
ほとんどが、同じ人、以外に会話をしてないと言って過言ではないでしょう。
つまり、会話を交わしている相手が近すぎて言葉にも相手にも気を遣わず、
伝わっているのか、どうか、全く、疑わないことも原因の一つと言えます。

同じ人と会話すると言うことは、
距離感が近いので、きちんと明確に、はっきり、しっかり話さなくとも、
理解してくれる、くれていると言う勝手な思い込みが災いしているのです。

ナレーターとして、
生きていきたいと思う人、それでは困ります。
語り手の原点は声であり、発声であり、言葉がすべてなのです。
いつ、いかなる場面においても「初対面的感覚」を念頭に置いての会話、
そして、初対面だからこそ言葉と相手に気遣いの心で語りかけるが肝要です。

言葉は耳に入ると、
すぐに消えてしまう性質であることも忘れないでください。

語り手として、
伝えるには、自らの生きざまをぶつけなくてはなりません。
それに伴わない発音、発声、読み方では感動と共感は得られません。

プレーヤーとして生きる、「日々の環境(感性、美意識)」のフィールドに注視し、
多方面から学び取る精神性を維持する必要性を忘れないでください。

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撮影地

京都市東山 建仁寺


妄想…

2011/10/05

あなたの周りにもいる、
とんでもない勘違いをしてる、こんな人、あんな人・・・

「声が良いと言われるんです」
「声に特徴があると言われるんです」

それで、ナレーターになりたいんです。

勝手な妄想を抱き応募してくるだけなら、いいのですが、
全くの未経験者なので、基本から学ばなければいけませんね、
と、問いかけると、驚いたように、そこまで必要なのですか。
そこまでは望んではいないんですけど、と言って呆れた話をする輩がいる。

ナレーターって、
もっと簡単に誰でもなれるんじゃないんですか、と言う始末。

なんでやねん・・・
と、ツッコミたい思いに駆られる。
いや、ツッコミどころ満載と言いたい心境になる。

世の中には不思議な人がいて、
不思議と思える話も存在します。

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では、声が良い基準とは何か、
良いと言う、判断基準はどこにあるのか。

声の良さを、セールスポイントに応募するのは自由だが、
単に、声が良いからと言う理由で、ナレーターとして所属させたら、
まるで、摩訶不思議ナレーター集団になる勢いであり、まさに驚愕!!
あり得ない、いいや、ありえへん世界なのだ。

ナレーターも芸事の世界です。
決して、甘く見たり判断したりしてはいけません。
皆さんが、勝手に思い描いている妄想、理想だけでは成り立ちません。
不可能を可能にしたいなら、形に嵌った自身の考え方、捉え方から脱皮すると、
同時に、厳しくしく律する心を育てる必要があります。

撮影地
東京都目黒区 浄真寺


あなたは知っていますか。
身体と言葉が密接な関係にあると言うことを・・・

知っているようで、意外に知られていない、
実のところは、全く理解されていないのが実体です。
いや、そこまで思慮深く捉えてる人も、そう多くはないと思われ、
身体の機能として、不思議とも思わず当然であると考えるのが一般的である。

身体 = 楽器 = 奏
言葉 = 情報 = 音

唐突に、こう記述すると何のことやら
意味不明と思い、首を傾ける人もいるかもしれませんが、
簡単に説明すると、声を使って成業していきたいと考える人ほど、
ここに着目しなければならないと、常々、指導している要素の一つです。

「身体を楽器と捉え、言葉と言う情報を音にして奏でる」の意。

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音声表現の原点であり、表現者として必要不可欠なものであり、
この意図する意味内容が理解されなければ、その他、大勢の一派となり、
やがては、消え去る道を歩むことになると言って過言ではない。

原稿の書き言葉を、話し言葉として扱い、、
同時に、息遣い、息継ぎ、間、抑揚、緩急等を
文中、文脈の展開に合わせて表現すると、声の高低も変化します。
音域や声域の幅も広がり、驚くほどに音色は変幻自在に変わり、
例えるならば、色濃くもあり、そして、味わい深くもあり、
それによって、その人となりのナレーションとなり得るのです。

声量不足の人、声域が狭い人、腹圧不足の人など、
これに該当する人ほど、きちんと、身体を鍛える必要があります。

世界的ブランド、ピアノの「スタインウェイ」や、
ヴァイオリン「ストラディバリー」の名器と称される楽器であっても、
綿密に計算された伝統の技と、培われた職人のチューニングなくては、
人の心に宿る感情、感動を呼び起こすことは微力であると言えるでしょう。

声の表現も同じく、原理原則に基づいた、
知識と理論の整合性による身体の鍛え方と日々のメンテンナンスを、
欠かすことなく努力を積み重ねて維持していけば、声は安定します。
そして、日々の生活環境にある練習時間、効率よく時間を活用したいなら、
律した姿勢で向き合い、そして、原稿と対話することも重要なことです。
そのフィールドから、見えてくる知恵の数々があることにも気付くことでしょう。

高みを目指したいなら、
焦りから生じて出る、あれもこれも吸収したいではなく、
大地に根が張り幹が育ち、葉が出て花が咲き実がなりゆく、
そこに自身の姿を重ね合わせて、イメージしてください。

すると、見えてくるでしょう。
何が不足しているかが、一朝一夕では何事も成就しません。
クリエィティブ、モノ作り、表現者と言う未知の領域を目指し、
始動していながら、思いも寄らぬ難解に直面し悩み苦しむ多くの人が、
不可能を可能にするには、己に、忍の一字を刻みこまなくていけません。

もう一つ、重要なことは日常会話です。
体と言葉の密接な関係と言うように、避けては通れない問題です。
この内容に関しては、後日、記述したいと思う。
撮影地
京都紫野 大徳寺塔頭 黄梅院


続.本流…

2011/09/23

人生とは、人が生きると書きます。
この世に生を授かった、その瞬間、何らかの使命と、
それぞれに、目的と目標が課せられていることに気付いてますか。

人が生きて行く道には、必ずと言ってよいほど目的と目標があるのです。

強い、信念に宿していると願ってやまない、
目的と目標を抱き応募してきたと思われる、女性4名のレッスン生たちが、
今現在、月6回に渡り、一部の先輩ナレーターと同席し肩を並べながら、
ボイストレーニングを始めとし、理論、技術、コミニュケーション力、
そして、人間力に至るまでの幅広いカテゴリーを習得し学んでいる。

秘めたる想いと夢はと言うと、
近未来、マスメディア界で幅広い活躍を遂げたい・・・
そのようなことを切望しているのであろうと察している。

だが、時折、ちょっと矛盾を感じる面が発覚するのだ。

現代の若者の顕著な例に挙げられる、
希薄さ、どうにかなるであろう的の体たらくさ・・・

この意と同様に、レッスン生の中からも垣間見えてくる矛盾点。
先に記述したように、ナレーターを目指すには理由があって、
そして、目的、目標がきちんと定まっているからこそ学びを求める。
そう考えるのが自然であり、当然とも言える。

主だった、矛盾点はと言うと、
・分かっていないのに、理解したように装う。
・分かっていないのに、質問の数が著しく乏しい。
・完全な形を理解しようとせず、表面的だけを理解しようとする。
・目的、目標に対し、取り組み方が正比例していない。
・目的と目標の貫徹は、遠い道のりであると言う教えを弁えず、
ショートカットで、どうにかなるであろう的、発想の姿勢。

23

時に、こう思う者もいるらしい・・・
本当の自分てなんだろう。
本当に自分は何をしたいのだろう。

迷い、悩みを感じたら、こう意志を働かせると善い。
「研ぎ澄まされた強い精神の心」
「清らかで曇りのない健全な心」
二つの意味することを紐解き、矛盾を消し去る姿勢で臨めば、
強い精神も健全な心も宿すことが現実となり、苦しみからも解放されて、
気付かなかった自分、見えなかった自分から発露されるナレーションは、
聴かせるナレーションから、感じさせるナレーションへと形を変えるのです。

そして、その先の道の向こうにある、極意も見えてきます。
「心が技を高める」
「技が心を求める」
撮影地、
埼玉県新座市 平林寺

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