NARRATOR ROAD


守・破・離

2013/03/09

気づけば、昨年の1月に記述投稿して以来、
時間が止まったかのように空白の時が流れてしまい、
新しい年月が刻まれていなかったNARRATOR ROAD BLOG。

これはいかんと思い、春の訪れは始まりの季節とあって再開です。

各養成所では、オーディションが行われていた2月。
弊社もガイダンスに記述してある通り、毎年2月と8月の2回に分けて、
オーディションを実施しているが、今期は該当するレッスン生はいなかった。
と言うか、きちんと教えを守り流れに準じ、練習と努力を積み重ねていれば、
チャンスを手中に収められる可能性は皆無ではなかったと言える。
結果として、形ばかりのボイスサンプル収録となり2月は過ぎ去りました。

多種多様な表現の世界はあるが、いかなる表現も、
心と人間が成熟せずして、邪念や雑念まみれの心からは、
そう簡単に、真の表現は発露されるものではない。

そのレッスン生も、その一人であり、今になってようやく、
学んできた時間の数ヶ月を振り返り、何が災いしたのか、
失敗した要因はなんだったのか、冷静に判断出来てきた様相である。

これまでにも、数多くの応募者が参加してきたが、
総じて言えることの一つとして、ナレーションと言う表現を安易に考え、
軽んじ、そして、日本語を読むなら自分にも簡単に出来るだろうと言う、
根拠も論拠もない、自信の持ち主がが多かったことかと改めて思う。

ナレーション、朗読の世界で活躍されている
大家の先生が仰るに、声質が良くて発音が明晰であれば、
「書いたものを読むなら誰でもできる」と言う人がいることに対し、
そう簡単に断定してもらいたくないと苦言を呈しています。

拝借し一例を述べるとこうです。
「文」とは整った言葉であり、
日常の会話の言葉と区別する必要性があると言うこと。
「文」は文字に書かれるように整っており、場合によっては形式をもち、
技巧さえも用いられる言葉として扱う性質を持ち合わせてると言うこと。

反面、日常会話とは首尾整わなくても通じ合うような、
状況と場面に依存して、話し手・聞き手の顔の表情やしぐさとともに、
用いられる言葉であり、何より違うのは、互いに相手の反応を見ながら
確かめながら用いられると言う点です。

多くの人が表現を簡単に当たり前のように出来ると思っていることを、
考察し工夫して取り組まなくてはいけないのです。
実際、そうしなければ映像を通して満足できるナレーションは出来ません
と、明言することに深く感銘を受け、意味を真摯に受け止め、表現の師と仰ぎ、
そして、ナレーションを軽んじることなくワークショップを実施しています。

Players WorkShop OPALには流儀が存在します。
「守・破・離」と言う流儀であり、ルールであり教えです。

「守」は、師について教えを守り習うこと。
「破」は、その教えからさらに新たなものを見いだすこと。
「離」は、その型から離れ、新しい自分の型をつくること。
この流儀、教えを守り学び通すことにより道は開けていき、花は咲き、
やがては、個性が確立され晴れて所属となりプロデビュー出来るのです。

shi

撮影地
鎌倉 長勝寺


妄想…

2011/10/05

あなたの周りにもいる、
とんでもない勘違いをしてる、こんな人、あんな人・・・

「声が良いと言われるんです」
「声に特徴があると言われるんです」

それで、ナレーターになりたいんです。

勝手な妄想を抱き応募してくるだけなら、いいのですが、
全くの未経験者なので、基本から学ばなければいけませんね、
と、問いかけると、驚いたように、そこまで必要なのですか。
そこまでは望んではいないんですけど、と言って呆れた話をする輩がいる。

ナレーターって、
もっと簡単に誰でもなれるんじゃないんですか、と言う始末。

なんでやねん・・・
と、ツッコミたい思いに駆られる。
いや、ツッコミどころ満載と言いたい心境になる。

世の中には不思議な人がいて、
不思議と思える話も存在します。

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では、声が良い基準とは何か、
良いと言う、判断基準はどこにあるのか。

声の良さを、セールスポイントに応募するのは自由だが、
単に、声が良いからと言う理由で、ナレーターとして所属させたら、
まるで、摩訶不思議ナレーター集団になる勢いであり、まさに驚愕!!
あり得ない、いいや、ありえへん世界なのだ。

ナレーターも芸事の世界です。
決して、甘く見たり判断したりしてはいけません。
皆さんが、勝手に思い描いている妄想、理想だけでは成り立ちません。
不可能を可能にしたいなら、形に嵌った自身の考え方、捉え方から脱皮すると、
同時に、厳しくしく律する心を育てる必要があります。

撮影地
東京都目黒区 浄真寺


回想録…

2010/11/04

本能と理性、善と悪、相反する二つの矛盾が、
この世に存在し形成されていることにお気付きでしょうか。

「人は何故、悩み、苦しむのでしょう」
事象の一部を回想録として記述しましょう。

参加者の中に、レッスンを重ねるに連れ、
悩み苦しみ、そして、あがき、もがく人を目にします。
その人は何故、悩みと苦しみに直面するのでしょうか。

その背景に潜んでいるものは言うと、こうです。
他の養成機関で学んだ経験者は、ある程度の知識を持ち合わせるが、
低次元レベルの理論と技術論の域にしか達していないのが実情なのです。
素直に夢を実現したいと願って来る者もいれば、一方では資質を省みず、
自身の感性、感覚に溺れ、そして、「誇大妄想と過大評価」の考えが交錯し、
自信と過信をはき違いをする結果に至っても、自分を認め受け入れられない、
様相の人が悩みと苦しみを背負い、苦悩に陥ってしまうと言うことです。

それは、単にレッスン生に留まらず、
一部の所属ナレーターにも見受けられる現象です。

プロとして自立する精神的・重要ポイント。
・自分の弱さを、直視出来る強さがない者は逞しいプレーヤーにはなれない。
・本当に好きで、本当にやりたいことは理屈ではない。
・ただ好きなこと、やりたいことに真っ直ぐに向かえるかどうかなのである。

ナレーターと言う職域で生きる、プロを目指す道程、
光が射すのか、道は開けるのか、誰にも見えず分からないのです。
一度、悩み苦しみを抱えたら自身で突破口を切り開く以外に方法はない。
自分は、それ以上でも、それ以下でもないのです。
自分が、どのくらい弱いのか把握できなければ人も組織も進化はしない。

選択肢は二つ。
・夢を諦めて野に咲く花のように普通に生きること選ぶか。
・夢を実現したいと強い意志が働くなら、自らの姿勢を正し突き進むのです。
そして、悩み、苦しくても逃げずに一路、前だけ見て進むこともいいでしょう。

お釈迦様は、このように言っております。
この世に生まれてきたことが悩み、苦しみの始まりであると…

 

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それが、仏教語で言うところの「四苦八苦」です。
人間として逃れられない必然的な苦しみをさします。
四苦とは、ご存知の「生老病死」、加えて下記の
「愛別離苦」
(あいべつりく)愛する人と別れる苦しみ。
「求不得苦」
(ぐふとくく)求めるが得られない苦しみ。
「怨憎会苦」
(おんぞうえく)怨み憎む人と出会う苦しみ。
「五陰盛苦」
(ごおんじょうく)存在を構成する物質的・精神的要素に執着する苦しみ。

人は選ぶことが出来る動物です。
だが、判断を間違えれば地獄と化する可能性も秘めています。
今のあるがままの自分を受け入れ、素直な演者、素直な表現者になり得る、
大きな心を育てる準備をする必要性を忘れてはいけません。

決して、自分に酔って「過大評価と誇大妄想」を抱いてはいけないのです。

 

撮影地 鎌倉市大町 安国論寺

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